<ウィリアム・ローワン・ハミルトン>
ウィリアム・ローワン・ハミルトン(William Rowan Hamilton)
1805年8月4日 − 1865年9月2日
アイルランド生まれのイギリスの数学者、物理学者。四元数と呼ばれる高次複素数の発見。また、イングランドの数学者アーサー・ケイリーに与えた影響は大きい。
ベクトルという用語はハミルトンによってスカラーなどの用語とともに導入された。スカラーはベクトルとは対比の意味を持つ。
幼い頃より神童として知られ、10歳で10カ国語を操るなど才能は図抜けていた。
本格的に数学を始めたのは15歳の頃で、当時最先端のラグランジュ、ラプラスの書物を学ぶ。この頃わずか16歳にしてラプラスの『天体力学』に誤りを発見し、専門家を驚かせた。
大学入学後も圧倒的な才気を見せ、学部四年で天文台長に推挙されている。
才能に溢れ、身体、精神共に快活なハミルトンは社交界でも人気を集め、親友の詩人ワーズワースは、ハミルトンとコールリッジを挙げて「私の出会った最も魅力的な人物」とすら述べている。
光学への数学の応用、ハミルトニアン、数学理論による自然現象の予言、解析力学の創始、代数系の基礎付けなど、前半生の業績は非常に華々しく、「ニュートンの再来」と呼ばれた当時の評判に恥じない物がある。
ブルーム橋にある四元数発見の碑文。
散歩の途中閃きを得たハミルトンは、四元数を定義する式を橋に刻み付けた。複素数を実数と演算規則により公理化していたハミルトンは、複素数を三次以上に一般化する事に心血を注ぎ、十年程を経た1843年10月14日、ブルーム橋にさしかかった所でついに四元数の概念に到達する。四則演算を保存しない四元数は極めて斬新なアイデアで、その後の代数学全体に多大な影響を残した。
しかし当のハミルトンは、四元数の実用化に取り憑かれ、その後約20年を四元数の研究に費やすようになる。700ページを超す大著『四元数講義』はド・モルガン、ハーシェルらに難解と評され、『四元数の基礎』を著するがこれも長過ぎて生前に出版される事はなかった。
晩年のハミルトンは、アルコール中毒に溺れながら誰にも理解される事のない数学研究に没頭した。遺体が発見された時、ハミルトンの部屋は酒と肉汁にまみれた二百数十冊のノートで埋め尽くされており、この中には正しい物、誤った物、判断のつかない物が入り混じった数式の山が残されていたという。また四元数は一部に「四元数カルト」と呼ぶべき一団を構成するものの、大勢からは無視され、省みられるまでに100年ほどの時間を必要とした。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[目次] [戻る]